2017年10月04日
内外政治経済
HeadLine 編集長
中野 哲也
成田空港を離陸したシベリア航空の直行便は、2時間足らずでロシア沿海地方の中心都市ウラジオストクの国際空港に着陸した。なるほど東京から最も近い「欧州」である。日本は明治維新直後、日本海を挟んで向き合うこの街と貿易を始め、1919年頃には6000人もの日本人が現地に居留していた。だが、幾多の戦争や動乱によって引き揚げを余儀なくされる。第二次大戦後の旧ソ連は、太平洋艦隊の基地である「軍都」ウラジオストクを「閉鎖都市」に指定。外国人はもちろん、市外の自国民でさえ立ち入りを禁止したため、この街は人々の記憶から消えてしまう。旧ソ連崩壊後の1992年にようやく開放され、今再び日本との関係を強め始めている。
ウラジオストクという街の名は、ロシア語のヴラジ(支配する)+ヴォストーク(東)=「東方を征服せよ」が由来とされる。帝政ロシアは1860年にウラジオストクを建都し、極東の太平洋岸進出と不凍港の確保という宿願を果たした。ちなみにモスクワからウラジオストクまでは直線距離で6400キロを超え、東京からの6倍以上になる。
もちろん、当時のロシアは極東に満足な港やドックを持っていない。このため、船舶の修理や燃料・水・食糧の補給は、長崎をはじめとする日本の港に依存した。江戸時代末期の1855年に締結された日露和親条約によって両国間では外交が始まり、明治維新から3年後の1871年にはウラジオストク~長崎が海底電信線で結ばれた。
一方、明治政府も農産物などの輸出先として期待を懸け、1876年にはウラジオストクに日本国政府貿易事務所を開設した(1907年領事館、1909年総領事館に昇格)。今、旧総領事館は一等地の角にあり、「築101年」とは思えない美しさだ。ロシアは法律に基づいてきちんと保存し、地方裁判所として活用している。貿易事務所開設から2年後、北海道開拓使長官・黒田清隆(後の首相)らの使節団はウラジオストクで北海道物産展を開催。麦粉やサケ、シカ肉などが高い評価を受け、中でも「サッポロカ」と呼ばれたビールが人気だったという。メディアが発達する前の時代に日本の地方と海外を直接結ぶという大胆な発想は、人口減少に苦悩する現代の日本が学ぶべきだと思う。
1881年、ウラジオストク~長崎に蒸気船の定期航路が開かれ、日露貿易は一段と活発になる。また、シベリア鉄道の建設が始まると、日本から多数の出稼ぎ労働者が作業に従事した。1904年の完成後、ウラジオストクは鉄路でモスクワと結ばれ、日本との貿易も一層拡大した。一方、京都の西本願寺はウラジオストクで布教活動を始め、「浦潮本願寺」が日本人居留民の精神的な支柱となる。当時、この街の日本語表記には「浦潮斯徳」などの漢字が当てられた。1900年に居留民の人口は2000人を超え、市内では日本人の貿易会社や商店が繁盛し、「日本小学校」も開校する。
こうして日本人居留民は言語の厚い壁や冬の厳しい寒さを克服しながら、ウラジオストクで活躍していた。ところが1904年2月に様相が一変する。日露戦争の勃発である。居留民はパニックに陥り、大半が引き揚げ船で日本へ帰国を余儀なくされた。
翌1905年の日露戦争終結後、ウラジオストクの日本人社会は復活し、戦前にも増してビジネスを積極的に展開する。例えば、ウラジオストク~青森に定期船が就航すると、青森県の関係者は「青浦商会」を設立してリンゴを盛んに輸出した。明治人の起業家精神には脱帽するほかない。日本人居留民の人口も増え続け、ピークの1919年には6000人規模に達した。
日本からは銀行も進出する。今も長崎市に本店を置く十八銀行はウラジオストク支店として「松田銀行部」を開設。後に、朝鮮銀行(日本債券信用銀行の前身→現あおぞら銀行)がこれを買収する。一方、横浜正金銀行(東京銀行の前身→現三菱東京UFJ銀行)は独自に支店を置く。各行は駐留日本兵から預金を受け入れたり、中国東北部・満州からの農産物輸出に資金を供給したりした。こうした銀行支店の重厚な造りは、戦前の日本版「産軍複合体」のパワーを今に伝える。
第一次大戦中の1917年、ロシアではレーニンが主導する世界初の社会主義革命が起こり、ソビエト政権が誕生する。大混乱が続く中、ウラジオストクの商店で強盗が日本人を殺害する事件が発生。それを口実に日本は「シベリア出兵」に踏み切った。軍事干渉を強める日本に対し、共産主義ゲリラのパルチザンが激しく抵抗。日本は1922年撤兵し、居留民のウラジオストクから日本への引き揚げが続いた。
結局、1937年までに総領事館職員などごく一部を除き、ウラジオストクから日本人の姿が消えた。第二次大戦後、旧ソ連軍は数十万人の日本人をシベリア各地に抑留する。市内の競技場「ディナモ・スタジアム」も、抑留者の強制労働によって建設されたものだ。
日本人居留時代の面影を残す建物を取材していると、「声なき声」が聞こえてくる気がした。人間の本質とは何なのか?国家とは?自由とは?...。胸を締めつけられ、シベリアの大きな空を見上げて考え込んだ。
【注】ウラジオストクと日本の間の近代史については、「ウラジオストク 日本人居留民の歴史 1860~1937年」(ゾーヤ・モルグン著、藤本和貴夫訳、東京堂出版)を参考にしました。厚く御礼申し上げます。
冒頭で紹介したように、第二次大戦後の「軍都」ウラジオストクは旧ソ連によって「閉鎖都市」に指定されたため、その実態は厚いベールで包み隠されていた。観光ガイドのオリガ・ソルダトワさんは「市外に住む祖母も市内に入れず、会うことができなかった」と当時を振り返る。だが今、この街は取り残されてきたロシア極東地域の開発拠点として脚光を浴び始めた。
ウラジオストクの人口は約63万人(2016年1月)でロシア極東地域では最大の都市である。札幌市とほぼ同じ緯度に位置し、1月の平均気温はマイナス12度まで下がるが、8~9月は30度を超える日も少なくない(在ウラジオストク日本総領事館「ウラジオストク市案内」)。
ウラジオストクは港と坂の街であり、日本の長崎の雰囲気とよく似ている。その急な坂を、ちょっと懐かしい乗用車が走る。市内を走行する自動車の実に9割超が、日本から輸入された中古車なのだ。トラックも「○○運送」といった漢字を付けたまま活躍中。ただし関税が高いため、安い買い物ではない。地元で大人気のトヨタ自動車「プリウス」の場合、良質なものなら200万円ぐらいするから、大卒初任給(6万円程度)の30倍以上になる。
坂の多い市街地では駐車場不足が深刻であり、違法駐車が激しい渋滞を招く。また、市内ではマツダと現地企業ソレルスの合弁工場が2012年からSUVや乗用車を生産している。
ウラジオストクはプーチン大統領も愛するロシア柔道の発祥の地でもある。この街は日本とは浅からぬ関係があり、今も親日家が少なくない。ジャーナリストのオリガ・クスコワさんもその一人だ。彼女はシベリア鉄道と数奇な縁があり、55年前にその車中で産声を上げた。15歳の時は車内で日本人の新婚カップルと出会い、ロシア語の苦手な二人の面倒をみた。そして日本に興味を抱き、わずかな手掛かりを頼りにこの夫婦の居所を探り、何と34年後の2011年に日本で再会を果たす。今、オリガさんは観光をテーマにしたインターネット・マガジンを編集しながら、ウラジオストクと日本の懸け橋になる。
旧ソ連時代の1980年代後半に建設された高層アパートを訪問すると、オリガさんが自慢の家庭料理を振る舞ってくれた。一家は日本食とりわけラーメンが大好物で、通信会社エンジニアの夫が腕を振るうという。オリガさんは「ウラジオストクの観光客の大半は中国からの団体客だが、日本人にもっと来てほしい。そのために、ビザ無しで日露両国間を往来できるようにしてほしい」と訴えている。
オリガさんのアパートは70平方メートル程度の3LDKで、内装はきれいにリノベートされていた。旧ソ連の住宅政策は手厚いものだったが、今はマイホームに市民の手が届きにくい。郊外のマンションでも大卒初任給約250倍の1500万円程度もするし、住宅ローン金利も二ケタだからだ。このため、社会人になっても親と同居する若者が多いという。約40円でバスに全線乗れるなど公共交通は今もしっかりしているが、無料が原則だった教育費や医療費が家計を圧迫する。社会主義から市場経済への移行に当たり、市民は自由を享受する一方で様々な歪(ひずみ)に苦悩し、ロシア正教の聖堂で祈りを捧げる。
現在、市民は国境を超える問題も抱えている。ロシア革命後の1930年代、ウラジオストクには主にウクライナ地方から入植者がやって来た。今もウクライナ出身者がウラジオストクの中心的な存在だが、ウクライナへの帰郷や故郷にいる親戚縁者との通信が困難になっている。クリミア問題をめぐり、ロシアとウクライナが激しく対立するからだ。
ある中年の男性は80歳の母をウクライナに残している。しかし、ウクライナ当局は帰郷して会うことを許さない。国際電話や電子メールもブロックされてしまうという。「パソコンの不得手な母が親戚の家へ行き、スカイプによって辛うじてコミュニケーションはとれますが・・・」と明かすと、笑みが消えた。クリミア問題では米欧もロシアに経済制裁を科しており、筆者もウラジオストク空港でVISAカードを使えず、あわてて日本円をロシア・ルーブルに両替した。
ウクライナとの対立は深刻だが、今のウラジオストクに「閉鎖都市」の面影はない。2012年のアジア太平洋経済協力会議(APEC)開催を機に、黄金橋やルースキー橋などの社会インフラが一気に整備された。旧ソ連共産党の最高権力者・フルシチョフ第一書記が1959年、「ソ連極東のサンフランシスコにする」と宣言してから半世紀余、この街は開放的な国際都市に発展し始めた。
今年9月6、7両日、極東への外国による投資を促すため、ロシア政府は東方経済フォーラム(EEF)をウラジオストクで開催した。安倍晋三首相とプーチン大統領による日露首脳会談も開かれ、極東開発を含む8項目の経済・民生協力プランについて合意に達した。
その際、安倍氏はプーチン氏に、嘉納治五郎の書「精力善用」(=目的を達成するために心身の力を最も有効に使う)を贈った。両首脳は市内で開かれた柔道のジュニア大会もそろって観戦したという。
ウラジオストクは国内外の権力に翻弄され続け、ようやく今、飛躍する時代を迎えつつある。日本との間では複雑な歴史が存在するが、東京から最も近い「欧州」、あるいはロシア極東開発の「玄関」として注目度が高まるのは間違いない。シベリアの燃えるような夕日を見つめながら、この街の可能性を確信して帰国の途に就いた。
(写真)筆者 PENTAX K-S2
中野 哲也